●年賀状
こんなわたしにも年賀状をくれる人が僅かなんだけどいるのよ。もうおせちも大晦日も紅白も初詣も関係ない日本にたまたま住んだ外国人みたいな二人暮らしに「お正月だったんだ!」って思い出させてくれる。
子どもの時は友達から何枚年賀状が来るか楽しみで、好きな男の子から来るかなあとドキドキした。
プライバシーってものが存在しない時代だったので年賀状は家族に検閲される。朝起きたら既に検閲済みで几帳面な父がそれぞれの分を輪ゴムでまとめている。
「あらあなたの好きなクボくんって意外と字が汚いのね」「永田さんから来た年賀状に相合傘であなたとモリくんの名前書いてあったけどどういうこと?」などと朝から母、亀子に問い詰められて嫌な気持ちになる。
今の子どもはいいなあ。ラインを親に見られることもなく、日記をこっそり読まれることもないんだもんなあ。
あの頃は居間の真ん中に電話があったので、好きな男の子から電話が来ると家族中が耳を澄ませている。電話を切ったあとのあの微妙な空気。
まあね、今となっては頼まれもしないのに日記を毎日世界中に公開しているんだから、あの頃の親を恨んでも筋違いかもしれないけどねえ。
●年賀状②
こんなわたしのことを忘れずに年賀状を出してくれる人がいるのよ。
きっちりしたその人の住所録にはわたしの名前と住所が書いてあるのね。もしかして結婚している時の姓をバツで消してヤシマに直してあるのかな。
きっとその人の住所録には賀状を出した印の○や、わたしが松の内どころかギリギリ一月中に出した返事が届いた日付も書いてあるうんだろうな。
わたしも昔は住所録を作ったけれどどこかに行った。
いただいた年賀状をファイルしようと何度も思ったけれど一枚だけ差し込んで頓挫した。
数少ない年賀状だからさっさと返事を出そうとテーブルの上に載せておいたのにもう15日になっちゃったよ。よし!今日こそ書こうと決心したのにテーブルの上にあったはずの年賀状が見当たらない。引き出しを捜すと何故か昨年の年賀状と、昨年出したつもりの年賀状まで出てきて唖然とする。
狭い部屋中探しまわって、ああやっと見つけたけれど今度は返事に使えるちょうどいい絵葉書が見当たらない。散々探す。
「お餅を食べ過ぎないでね」の紋切り型定型文は使わずにあれこれ近況を書いて切手を貼る。
切手はあるのよ。スヌーピーの可愛いのを買い溜めしてあるのよ。
ああ出来たとポストに入れたあとで気がつく。ハガキっていま52円じゃないのね。明日わたしんちに戻ってくるよね。
年賀状をくださったみなさん返事はもう少し待ってください。
●感覚的にわかる
アイパッドプロと言うものを買って、プロクリエイトという絵を描くためのソフトをその中に入れたんだな。ブログを書き始めてしばらくしてからね。
100円均一で買ったお絵かき帳に色鉛筆とパステルとマーカーで挿絵を描くのが限界になったもんで大枚はたいたのよ。
使い始めて一年近いのだけれどまだ使いこなせないの。
「レイヤー」ってのがあって、絵の階層なのよ。線画を描いてレイヤー。顔部分に色を塗ってレイヤー。背景に色を塗ってレイヤー。
この意味がさっぱりわからないの。なんだこりゃ。
わからないわたしが書いているんだから読んでいる人もわからないと思う。
壮二郎に何度も使い方を聞いて、もう聞くのが恥ずかしくなって使えないままにしておいて何とか騙し騙しやり繰りしていたのだけれど、今日使えないことがバレちゃった。ちなみにバレたのこれで三回目よ。
温厚と言われる壮二郎が声を荒げて「こんなことまだわからなかったの?」って。
劣等生に呆れる教師。という場面。
だってわからないんだもん。
「こういうのは感覚的にわかるものなんだよね」
それが感覚的にわからないんだってば。
みんながわかることがわからないんだもん。
道順を示す矢印が上を指していると
「二階に上がるってことなのかな?」って思う。どうして真っ直ぐ行くのが上を指しているの?わたしにはわからない。
わたしと違う脳の仕組みの人が作った地図や道順や見取り図がわからない。
「アップルの製品は感覚的にわかるように出来ている」ってよく言われてるけれどその感覚がないんだってば!
みんながわかることがわたしだけわからない。
わたし以外の人が「常識でしょ」と思っていることがわたしにはさっぱりわからないこの疎外感。
世の中ってわたしが理解出来ない暗黙のルールで動いているみたい。
例えるならば、お城の舞踏会に勘違いして「ドジョウすくい」の扮装で参加しちゃった感じ。
あ~らエッサッサー!と誤魔化すしかないのよね。
だから道でもデパートでも迷うんだと思う。
でもね、トイレの場所はわかるのよ。
わたしトイレが近いの。
だからわかるの!
あれ、これが感覚的にわかる。ってこと?