みさ日記「嫁に来ないか(新沼謙治)」「男らしいとかなんとか」

●嫁に来ないか

新沼謙治って知ってる?

代表曲は

「嫁に来ないか」

 

よーめにいー(ケンちゃん!)

こないがあーー(行くわよ!)

という合いの手が入っていたような気がするのはわたしの妄想かな。

スター誕生に東北弁丸出しの新沼謙治が登場した時は衝撃だった。

まだ日本に田舎がいっぱいあった頃のことなのよ。

姑小姑大姑同居の瓦葺き屋根の家に「さくら色した」君が嫁に行くんだろうか。

デートの時に乗ってきた赤いスカイラインが実は義兄との共有だったと気が付くのは入籍してからなんだろうか。

「日の暮れの公園でギターを弾く」ような男は今なら変質者扱いか。

うっかり口車に乗って「からだひとつで」嫁に行ったもので、姑にその後30年間(姑が口をきけなくなるまでの年月ね)

「ウチの嫁はからだひとつで来た」

と、触れ回られているんじゃないだろうか。

どうしてこんなに新沼謙治が気になるのかって言うと、わたしが

「嫁に来ないか」

と言われたいからじゃないからね!

あーあ、子どもの頃は

「お嫁さんになる」

が人生の最大の目標と刷り込まれていて、気の強さを全面に出すと

(年上の意地悪な男の子の背中にかじりつくとか、大嫌いな子の親に文句をつけに行くとかね)

「そんなことじゃお嫁に行けないよ」

と散々言われたもんだったわ。

あの頃のオトナの皆さん、よくもわたしを脅してくれたわね。

お嫁に行けたからね!

戻って来たけどね。フン!

 

それはまあ置いといて。

わたし、凄く不思議なの。

昭和じゃなくて、平成も終わって令和にまでなった今の日本。

「嫁に来ないか」だの「嫁を迎える」だの「嫁に貰った」だの、もう言わなくて良いんじゃないかな。と思うのよ。

好きな男の子の名字に自分の名前をあてはめて

「キャー、伊勢谷操って合う!」って喜ぶ気持ちは否定しないけれど、いつまで経っても選択的夫婦別姓にさえならない日本ってどれだけ家だ跡取りだ長男だに縛られているの?

同じ名字を名乗る一体感が家族の結びつきを強めるって本気で思っている人がいるって、ただただ驚く。

あ、ちなみにわたしんちに来るクロネコヤマトさんは「八島さん」なんだけど、あ、同じ名字だな。って思うだけ。

あ、これは話しずれてるね。

わたしすぐに脱線するのよ!

 

嫁ぐとか、相手の家に入るとか。そういう意識が女性をどれだけ縛って来たのか。

もうこれ呪いじゃない?って思ってる。

 

ここで本題よ。あー長かったね。

 

どうしてモノが売れた時に

「お嫁入が決まりました」

って言うの?

言いたいのはこれよ!

家具屋でも石屋でも鍋屋でもアクセサリー屋でも、不動産屋でまで聞くんだけど。

「我が子同様の大切なものを送り出す」

ってことなんだと思うよ。

でもね、その直前まで「虐げられた女性性」なんて言ってたその口で言うかなあ。

そしてわたしがもしも箪笥を買った時に箪笥屋さんに

「八島家にお嫁にやりました」

なんて言われたら困るよねえ。

嫁に貰った憶えは無い!

お金出して買っただけだからねーー!

追記・使用済みの私物をオークションで売ってる方も「この博多帯のお嫁入先が決まりました」って記していた

これはやっぱり再婚が決まったってことよね。

●男らしいとかなんとか

わたしは幼い頃からよく男の子に間違われてきたし、今でも名前で男と勘違いされるの。

いやあ、女なんだけどねえ。

昭和の最初の頃に生まれた父は愛情深い人だったけれど、根っからの男尊女卑だった。

父は娘であるわたしを愛してくれていたけれど、それ以上に「集合体としての男」を愛していた。

あれはなんなんだろうねえ。

二番目に生まれたわたしが男でなかったことは、彼の短い生涯(と、言っても63年だけど)の傷となったようで

「八島父二郎(仮名)の人生で思い通りにならなかったことがひとつだけある。それは男の子が生まれなかったこと」

と公言していた。

なんだか芝居がかってるよね。

そ、わたしんちの一族は芝居がかってるんだよね。

それを聞かされて育つわたしってどうよ。

フン、もう気にしていないけどね。

生まれ変わっておそ松くんのお父さんにでもなればいいのよ。

生まれたときから激しい気質のわたしが「男尊女卑」を刷り込まれるんだから人格もいかれるわよねー。

一応尽くす妻をやってみたあとに爆発して嫁ぎ先から出戻ったんだけどね。

男は強くてか弱い女を守るんだ。なんていうことを半分信じて育ったのだけれども高校生の時に周りの女子を観察してわかった。

女には二種類しかいないって。

「弱々しく見えて実は気の強い女」

「気が強そうに見えてやっぱり気が強い女」(これわたしね)

なんだよ、見せ方が違うだけじゃん。って。

 

よく言われるの。

「操ちゃんって中身男よねえ」

「操さんって女だけど男前よねー」

これはきっと「竹を割ったようなさっぱりした気質」

「勇気と決断力がある頼もしい人」

みたいな感じに使われるんだと思うんだけれどね。

べつにその表現に「男」つかわなくても良いんじゃないかと常々思ってる。

これね、「旧世代」の人じゃなくて、ま、いわゆる「スピリチュアルも好きです系」の女性に言われるのよねえ。

虐げられた女性性の回復とか言ったその口で「中身は男」ってなんだそれ。

 

わたしは気も強いし勇気もある。

さっぱりはしていないのだけれど、記憶力が衰えたのでさっぱりしていると勘違いされるみたい。

でもね、それは男のようにじゃないからね。女だてらでもない。

単なるわたしの特徴だからね。

女性として傷ついたこともあるよ。もう平気だけどね。

傷なんて塞がってしまえばなかったことに出来るってば。

任せて!わたしこれ得意なんだってば!

お母さんだったこともあるけれど出産して30年も経てばもう時効よ。

お母さんの時はね、男でも女でもなく「自分と我が子が生き抜くための頑張り屋の哺乳類」だった気がするんだけどなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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