産科病棟の夜は更ける

白二郎と甘三郎が産まれるまでの長い間、わたしは大学付属の産科病棟で管理入院して過ごした。

当時の大学病院の病室は8人部屋だった。

大部屋のことを「雑居房」といつも言い間違える、つまりそんな過去を持った人がいたな。昔。

8人全員が早産防止のための管理入院という、つまり動いてはいけないヒマ人が集まった雑居房、違う、大部屋。

仙台から実家のある札幌に戻ったその足で入院となり、しょんぼりしていたのも3時間くらいだった。

入院のための簡単な検査を終えて、ベッド周りを整えたらもうすることはないのよ。

新入り(わたし)のことをちらちらと観察していた一人が、口火を切る。

「何ヶ月なんですか?」

待ってました!と喋り始めるわたし。

お腹がすごく大きいけれど、これは双子だからでまだ四ヶ月で。

嫁ぎ先の仙台から実家のある札幌で里帰りで。

2歳になったばかりの長男がいて。

新入りの自己紹介が終わると、他の人の身の上話が始まる。

あっと言う間にもう夕ご飯の時間。

一晩目からもう修学旅行気分。

 

翌日お見舞いに来た姉が、

「エレベーター降りたところでもうあなたの笑い声聞こえたわよ。あんまりうるさくすると迷惑でしょ。」

と心配したのだけれども、もうお喋りが止まらない。

あれ、お酒呑んでるんだっけ?状態で、みんな大きなお腹を抱えて笑っている。

 

大学病院は週に一度、教授の総回診があるのよ。

あれよ、あれ、白い巨塔よ。

「財前教授の総回診です」よ。

その日はお団子頭のおばちゃん婦長が(今は師長って呼ぶのよね。あの頃は婦長!)部屋をチェックに来るの。

部屋が片付いていないと教授が機嫌悪くなるんだってさ。

サイドテーブルに載せた湯のみも隠せの雑誌も片付けろの、姑が現れたような口うるささなの。

こっちはお客様なのに、なんで教授ごときに気を遣わなくちゃならないのよね、と文句言いながらごちゃごちゃを全部ロッカーに隠すわけ。

家庭訪問前の大慌てのお片づけと同じ。

家庭訪問は毎週じゃないからいいけれど、財前教授は毎週来るのよ。

 

そして、患者は全員ベッドでお腹を丸出しにして横たわり、教授の到着を待つのが決まりなの。

「もうすぐいらっしゃるから早く!」と姑、違う婦長にせかされ早々とお腹丸出しで横たわるみじめさよ。

築地のマグロよ。

ごろーん、ごろーん、って妊婦が転がっているの。

オバサンの階段を今日も一段登るわ。

 

財前教授は腹出し妊婦8人の中からわたしを目がけて寄ってくるので

「何事か?」と緊張するのだけれど

「この妊娠線は前回のもの、そしてこれが今回の妊娠線」

と若い研修医に新旧妊娠線混在の見本のわたしのお腹を指し示すわけ。

「この患者は双胎でまだ16週」

臨月にしか見えないわたしのお腹を見て声にならない声を上げる研修医。

今、3段オバサンの階段を登った。

 

 

8人部屋では全員がヒマを持て余しているので、ずーっと喋っている。

その中でも症状が軽くて廊下に出ることが許されている、4人目出産の圭子さん(仮名)は抜群の耳の良さで他の部屋の情報や看護婦同士の力関係を把握し、吹聴してくれた。

わたしたちは、どの医師が何度浪人したのか、国家試験は何回受けたのか、奥様との馴れ初めやご実家の暮らし向きまで把握した。

看護婦さんに至っては、住んでいる地域も特定していたんだから、そら恐ろしい調査能力。

今まで2回帝王切開で出産している圭子さんは、「今までの2本の手術跡を今回の切開と同時に一本にまとめることによって腹周りを細くする手術」という産科なのか美容外科なのかわからない手術をする約束をとりつけていた。

 

女性同士のマウンティングというものが確かに8人部屋でもあった。

最初は「いかに自分が大変な妊娠をしているか」がお題だった。

 

「流産、死産につぐ流産。」

わー、大変なのねえええ。

「救急車で運ばれて、一升瓶一本分の輸血をした(例え方が昭和でしょ)。」

え、今は顔色いいけどねえ。

「別の病気で長期入院していたのに仮退院中に妊娠したので命がけで産む。」

あ、いわゆる命のバトンってのよね…。

命の危険を感じると子孫を残す的なね。

 

わたしなんて、わたしなんて、双子妊娠でびっくりなんだけど、それくらいの持ちネタじゃ勝負にならないわああ。

 

「大変な妊娠」に関してのマウンティングは

「命のバトン」の一美さんに決まったのだけれど、次のお題は

「どれだけ姑に意地悪されているか」になったの。

この争いはかなり熾烈だった。

室温が上がるほど全員興奮するわけ。

 

京都の小さな旅館に嫁いだ京子さん(仮名)

「どケチな姑はお客様がお茶碗にちょっぴり残したご飯粒も全てかき集めて、それをどろどろの糊にしてシーツや布団カバーの糊付けに使っている。」

から始まる、ケチケチ話は、細うで繁盛記?銭の花は白い?で深く胸に刺さった。

 

一升瓶輸血のちとせさん(仮名)は

「姑が残り物のおかずを炎天下持参して無理に食べさせられて、お腹壊してあやうく流産」

「流産しかかった嫁に大型犬の散歩を言いつけて旅行に出る」

などの王道意地悪を受けていると誇らしげに語る。

 

美人の憲子さん(仮名)

「母一人子一人で苦学して弁護士になった夫。当然姑は新婚旅行も同伴」

「結婚式のために何故か姑が二重に整形」

「夫の身の回りの買い物は全て姑が担当」

「勿論財布を握っているのも姑」

華やかな容姿、ご主人のエリートぶりとの落差がポイントを稼ぎ、晴れてマウンティングの頂点に立った。

よく考えたら全然嬉しいことではないのに、憲子さんは女王の座に誇らしげに着いた。

 

わたしだって、わたしだって、一人っ子のぴょろ田さんを溺愛しているお姑さん、遊びに来ると必ずぴょろ田さんの部屋に籠もっちゃって。

何してるのかなああ?ってこっそり覗いたらね。

ぴょろ田さんのトランクス引き出しから全部出して、ガムテープで糸くずほこりぺたぺた取っていたの。

ものすごっく神経質なお姑さんなの。

っていうとっておきの話をしても、いまひとつ破壊力に欠けるのよねえ。

凄みが無いって言うの?

 

面会時間に噂の的のお姑さんがお見舞いに来ると、

「やっぱりケチくさい感じだわ」とか、

「息子と連れ立ってお見舞いに来て浮かれているな」とか

「切開法の二重手術はやっぱり不自然だな」とか

観察をして、帰った途端にお裾分けの栗饅頭とかマドレーヌを食べながら感想を言い合う。

 

ご飯の支度も子どもの世話もしなくて良い究極の暇人が8人揃うのだから、これはサロン亀子を超える無法地帯なのよ。

ただ、入院中ということで食べものが自由に手に入らないわけ。

いつも冷めた薄味の病院食で、しかも入院中って夕御飯の時間が早いわけ。

食べた後に延々と喋っているのでお腹も空くし喉も渇くの。

病棟看護婦の噂話も姑の悪口も尽きると最後は食べものの話になるの。

これってやっぱり雑居房よね。

熱々で、味が濃いものが食べたくなるの。

「ああ、お好み焼きが食べたい!冷たいコーラと!」ってことで意見が一致するわけ。

出所したら、違う、退院したらその足でお好み焼き屋さんに行こう。

「兄貴、ご苦労さんでした」って誰か迎えに来てくれないかな。

 

 

8人の中で静かな人もいるのよ。

車で3時間以上かかるところで酪農をやっているというひろみさんは、若いころに大きい病気をしたから「念のため」に管理入院をしていると言うことなんだけど、その病名も言わないし(でも早耳の圭子さんは看護婦の話を盗み聞きして大体の察しはつけていた)

姑の悪口で、部屋中が興奮状態になっている時でも

「うちのばあちゃんは田舎の人だから何にも言わないの」と、ただみんなの話を聞いていた。

雑誌のクロスワードパズルを解いたり、カーテンを閉めて眠っていることも多かったので、なんとなくひろみさんのことは忘れがちだった。

強烈な印象を残さない人っているわよね。

みんながみんなわたしみたいにお喋りってわけじゃないしね。

 

でも、ある日曜日に状況は一変したの。

 

ひろみさんは、前の晩に看護婦さんに頼み込んで入浴をした。

その後でくるくるドライヤーで横髪をキレイに流した。

朝起きたら、なんと薄化粧をして、顔映りの良い新しいネグリジェに着替えていた。

 

ひろみさんのご主人が、酪農の仕事の合間を見て初めてお見舞いに来るのだった。

見舞い客の値踏みを散々していたわたし達は口には出さないけれど

「垢抜けない兄ちゃんが来るんだろうな」と踏んでいたのだけれど。

 

ひろみさんのご主人はすらりと背の高い、日焼けした、キアヌ・リーブス級の色男だったの。

 

一同黙ってしまった。

 

ひろみさんはベッドの周りをカーテンで覆い、二人きりの世界を作ってしまった。

 

わたしは悟ったの。

お金持ちとか、学歴が高いとか、大変な妊娠とか、姑が超意地悪とか。

そんなことをぜーんぶブルドーザーで追いやるほど、美しい夫がいるって凄いことなんだ。って。

 

その後もひろみさんは積極的に喋ることも、夫の顔自慢をすることもなかったのだけれども

雑居房の全員が何となくひろみさんに一目置くようになったし、黙っている横顔が自信に満ち溢れているように見える気がした。

LINEで送る
Pocket