1995年6月
長太郎9歳 白二郎、甘三郎6歳 わたし32歳
仕事を終えて、両腕いっぱいに食料を抱えて戻ると、子供達がピアニカ、カスタネット、リコーダーで大音量で演奏をしながら歌っていた。
ど、どうしたって言うの??
「おかあさーーん!」
甘三郎が涙を溢れさせて抱きついて来た。
長太郎の説明。
「あのね、お、奥さん・・・。って変な電話が来てね、甘くんが怖い・・・。って泣いちゃったの。だから、陽気に行こうぜ!ってみんなで楽器鳴らして騒いでいたの。」
ああ、またか。
当時、家の電話が主流の時代で、
「奥さん、何色のパンティはいているの?」
「はあ、はあ、俺のここを××して。」
のエッチ電話から
「お母さんはいますか?何時に帰りますか?」と、
「おめでとうございます。海外旅行に当選しました。」
「○○霊園でお墓を買いませんか?」
まで、矢鱈かかって来たわけ。
そりゃ気持ち悪いわよね。
わたしなんて、エッチ電話には
「もしもしー。もしもしー!もっしもっし亀よ、かーめさんよー!」
と、相手がわたしの音痴に耐えられなくなるまで歌い続けると言う作戦だったんだけどね。
この手は100パーセント有効でした。
お留守番を楽しくしてもらうためには、イタズラ電話対策と、イタズラじゃないけど営業電話対策が必要。
まずは、留守電を変える。
普通の留守電にしておくと、営業電話からの録音がいっぱい入って、それを再生して怖がるから。
八島家の新しい留守電を録音しなくちゃ。
台本を書いた。
白 「白でーす!」
甘 「甘でーす!」
長 「三波春夫でございます」
白、甘 「ちがうだろ!」
白、甘、長 「メッセージをどーぞー!」
レツゴー三匹を知らない子供たちに、唾を飛ばして演技指導する。
難しいのは長太郎の「三波春夫でございます」
もっと深い声を出すのよ。
いい、みなみはるうおって、「る」を上げるのよ!
違う!もっと喉を開く!
と、妥協を許さないわたしに、必死についてくる長太郎、頑張り屋。
白と甘は飽きて
「もう、いいよお、はるうおじゃなくて、はるおーで。」
ううん、この「るう」が大切なのよ!
ジャクソンファイブのお父さん並みのスパルタで、たかが留守電に夢中になる。
完成した留守電の成果で、営業電話の留守録は激減。
それでも子供がいる時にはどんどんかかってくる。
あ、わたし別にカードローンやサラ金で借金して督促の電話に悩んでいたわけじゃないのよ。
お金はないけど借金する才覚も勇気もないから。
「ハイヤシマでございます」ではなくて
「ハイ、七曲署捜査一係」と出ることにしたんだけど(藤堂係長の気持ちで出る)それでも営業電話は止まない。
もう、最後の手を打つしかない。
いい、お母さんいますか?って聞かれたら、「服役中です。」って答えなさい。
「罪を贖っています。」ってね。
「ええ~!面白いいい!早くかかってこないかあ。」
と、喜ぶ子供たち。
これで営業電話はぴたりと治まった。
時は流れて、10余年。
わたしはコールセンター勤務をした。
顧客リストの中に
「架電絶対禁止」のリストがあることを知った。
すごーく怖い人だからかけちゃダメってのね。
わたしんち、その中に入っているんだなあ。
そしてまた10年。
白二郎と私は三波春夫先生の素晴らしさに気付いた。
あの頃、三波春夫(笑)の扱いをしてごめんなさい。
インド料理屋を営みながら開店直前まで三波先生の曲を大音量でかけて歌う。
開店と同時に何食わぬ顔でインド音楽を流す。
あの時
「三波春夫でございますー。」
の留守電を制作したのも、こんにちの三波先生への敬慕への序章であったのだと
めぐり合わせの糸車(長編歌謡浪曲・橘左近より)に思いを馳せるのであった。